永遠という言葉を思いついたやつと仲良くはなれない(ということを言うような十五時間前の自分とは仲良くはなれない)

 

 元サークルメンバーで宅飲みしていた先輩の家を眠いとかいう理由で離脱し、家に帰ってシャワーを浴びて目が冴えたのでこの文章を書いている。
 もし友人達がこれを読んでいるとしたら、こんな後で読み返して後悔するような謎ポエムを書くくらいなら、どう考えても帰らないで餃子でも焼いてたら良かっただろと思うに違いない。いや、本当にそうなのだ。でも信じて欲しい。私は本気で帰って寝るつもりだった。そう出来なかったのは多分先輩が留学に行くからである。

 先輩が一年ほど留学に行くんですよ。

 その先輩は前々から世話になっていた先輩で、当然ながら影響も受けたし、その先輩自体が(本人は絶対否定するだろうけど)かなりの人格者なので、単純な話をすれば大好きな先輩だった。まあそんな先輩と一年も離れるっていうのが本当に寂しい。
 それで、今日は何やかんやあり、都合があったサークルのメンバーと飲み会をして、みんなで餃子を焼いたりした。餃子って包むだけでエンターテインメントになるから素晴らしい。普段は引きこもって小説を書くだけの日々なので、こういう集まりが得難いな、と思いながら執拗にヒダを作って餃子を焼いた。
 で、手作り餃子を食べた後は冷凍の餃子を素朴に食べようということになり、自分達が作ったものより幾分か形のしっかりした餃子をホットプレートに並べて蓋をしたところで、そこからずっと感傷に囚われている。
 いや、本当に訳がわからないんだけど、あの均整の取れた餃子の並び。あれが一番駄目だった。何せ形が綺麗だから。完璧に見えてしまうのがよくなかった。そう、完璧に見えたんですよね。あの瞬間が。

 サークルの友人が好きだ。まあサークルの性質上自然発生的に先輩も後輩も同期も居て、そのどれもが割と大事だ。今回留学に行ってしまう先輩もそうなんだけれど、本当に得難いと思っている。
 私はあまり社交的な人間じゃないので担当編集氏に心配されるくらい友人が少ない。そんな中でまあこれは衒いなく友人……と呼べるのがこのコミュニティーくらいで、井の中しか知らない蛙が往々にしてそうであるように、こんなに奇矯な人間が集まるのはここだけなんじゃないかと自らの庭の芝生を真っ青に染めている次第である。そんなの、まあ大切にしちゃうんですよね。大切にするって言っても私がこの中ですることとか特には無く、ただ大切だな、と思っているだけなんですけど。

 だから、感傷に負けてしまって駄目だった。あの餃子を焼いた瞬間に、これ永遠じゃないのか、と思って悲しかった。よりによって冷凍の餃子でこんな感傷に浸りたくなかったので、もう少し不揃いであってくれればよかった。


 カート・コバーン氏の遺書に「きっと全てを失ったときに初めてそのありがたみが分る世界一のナルシストなんだ。」という一文があり、私は折に触れてそれを思い返している。対する自分は、最高の瞬間を味わう度にそれが失われることを想像してしまい、餃子が焼けるのすら楽しめない。

 要するに私は永遠コンプレックスなのだ。

 いや本当に、今日ここでいいのかよと思ったし、あの場に居た人間には嘘だろと思われるかもしれないけれど、私はあの場が永遠じゃないことに驚いてしまった。

 昔から定期的に開催されるものが恐ろしかった。定期的に行われる演奏会と聞いただけで、それが終わるところを考えてしまう。だってほら、永遠に催され続ける演奏会とか、多分無いじゃないですか。永遠に催され続ける演奏会を観測出来る人間はいないから。毎年決まった季節に行く旅行とかも、いつか行かなくなる日を考えてしまう。

 つまりは何か幸福なことがあると、これ、永遠じゃないのか、って思ってしまうんだよな。永遠という概念があるから、どこかそれを追い求めてしまう節がある。本当に、永遠という言葉を考え出した奴とは仲良くなれない。そんな訳の分からないユートピアを設定してんじゃねえよ。天竺はインドなんだから永遠も何処か目的地を用意しておいてくれよ。

 永遠であって欲しいと思った時から感傷は忍び寄ってくるんですよね。いつか私達は定期的に会うことも無くなり、私は今日の思い出をマイルストーンか何かのように打ち込んで、折に触れて振り返ることになるのかもしれない。そんなの本当に嫌なんですよ。ハンドスピナーで五年は遊びたい。遊びたかった。もう遊んでない。いつかこんな物凄く最高な人間関係ですらハンドスピナーの箱に入れることになるとは思いたくないんだよ。これは未来の私に言っている。絶対入れないでほしい。

 サークルの友人たちが好きだ。永遠に一緒に居て欲しい。ここの一文が多分無理なんだ。条件に存在しないものを代入してしまうから。

 泥酔した私がみんなに「変わらないでくれ」と言ったって多分人間変わるし、いつかこの激情も忘れてしまう日が来るだろうな。私は忘れっぽいし時間は無慈悲だし、死んだ恋人をずっと同じ熱で愛し続けるのは難しいし、手元のスマートフォンは一年前のパワーワードを予測変換から弾き出す。
 なんだかんだ言って先輩は留学に行く(いや、留学には行った方が良い)寂しいとか永遠に傍にいてくれとか喚いてもみんな人生をやっていく。また永遠ってワードが自分達を置き去りにするよ。こういうこと言うと滅茶苦茶良い奴な後輩が「私は永遠に斜線堂さんと遊びますよ」とか言ってくれちゃうんだよな。本当か? 五十年先でもワードウルフで笑ってくれる?

 でもまあ、永遠って言葉を作った奴を赦せないってことだけは一生忘れないと思うんですよ。きっとみんなで集まって餃子を焼くこともなくなって、私がそれを悲しくも思わなくなって、餃子を一人で食べて満足するようになっても、永遠って言葉を開発した奴への愛憎は、多分忘れないものなんだよな。

 そういう話です。

 

*(以下、十五時間後の怪文書)

 

(十数時間後の追記)

 

 完ッ全に酔いが醒めて素面に戻った時にこの文章を読んで、案の定頭を抱えた。友人に言及するより先に、明日の自分自身について言及して欲しい。一番怒るのは十八時間後の自分だぞ。そういう性格だってお前も分かっているだろ。

 

 アルコールが入った状態で書けるタイプの文豪にはなれないのだな、と自覚した。何しろ普通に一行目から文章が下手なのである。私は斜線堂有紀本人なので知っているが、こいつはこれを書く一時間前くらいに酔って人知れず駅の階段から落ちてるんだ。そんな人間が意味の通った文章を書けるはずがない。あと、先輩が留学に行くというだけでそんなテンションになるのはどうかと思う。先輩は普通に帰ってくるぞ。

 

 これを読んで秒で消そうと思ったのだがそうしなかったのは、本気でアルコールの入った自分の文章を見るのが何だか興味深かったのもあるし、あとは、この文章を書いている自分と今の素面状態の自分の思想が完全に矛盾していることに驚いたからでもある。結論から言うと、私は別に永遠という言葉を考えた人間と仲良くなれないとは思わない。

 

 というか、この文章を書いた人間は『ユニコーンが現実に存在しないのが悲しく、その悲しみを創出するきっかけになったからユニコーンって言葉を考え出した人間が憎い』みたいな話をしているようだが、ユニコーンが現実に存在しないとしてもユニコーンって概念があるだけで人生ちょっと楽しくなるだろ。

 

 それに、ユニコーン何処かにいるかもしれないし。私は永遠って言葉が好きだし絶対にあると思いますね。永遠に催される定期演奏会は無いかもしれないけど、楽器を別のものにしてディスコイベントにしながら続けていくことが出来るだろうし。ハンドスピナーは完全にお前の怠慢だよ。でも、ハンドスピナーで遊ばなくなっても今でも部屋にあるし忘れてないんだよな。

 

 そもそも私がよく言う「一生小説書くからね」のスティグマがある以上、そこに永遠があることを期待しているはずなので、この時点で自分への解釈違いが発生している。アルコールで人の本性が出るとはよく言うけれど、本当にそんなことがあるんだろうか? 今理性的な自分の根幹にある「一生小説書くからね」と、酔って出たその本性らしきものが矛盾するということは? まあ、人間ってあんまり恒常性の無いコンテンツなのでそういうことなのかもしれない。

 

 ただ、かなり寄り添って解釈するなら、多分これ書いた人間は自分の記憶力の不確かさを知っていて、それ自体に何の期待もしていないんだろうなと思う。あとは外部のものの恒常性も。だから「その瞬間の輝き」(記憶に類するもの)「大切な友人達」(外部のもの)を永遠と繋げられなくて嫌なんだろう。

 

 でも「一生小説書くからね」は外部というものが全く関係がない。最悪地下室に閉じ込められても自分が存在していれば小説は書けるわけだから、割と永遠に近いものとして認められるのかもしれない。でも、酒に酔うと小説が書けない(実際、不純文学は目が回って書けなかった)ので、アルコールが入った状態だと自分の中に永遠に繋がるものが無くなって、素面の自分と矛盾するわけだ。

 

 と、ここまで纏めて自分なりに解決した。これに気がついた時は割とすっきりしたのだけれど、これを読んでくださった皆さんが読んでも何を言っているんだ? になるかもしれない。でも、酒に酔った文章に向き合った文章なんて意味が通らなくて当たり前なのだ。

 

 もう一度結論を言うと、永遠はあります。私は永遠があると思ってますよ。

 私は一生変わらないでいます。五十年後もワードウルフで笑うかはわからないけど、永遠があると思うし証明はいし続けていこうと思うよ。

  そういう話です。