無限に増えていくチンジャオロースと愛を語る


 食べるのが好きだ。人生は大変なことが多いので、ご飯を食べている時だけが幸せな時と言っていい。人生なんて爪を剥がされながらたい焼きを食べているようなものだ。(これはたい焼きがとても好きなことを示す文章です)

 

 まだ大学に通っていた頃、某所でアルバイトをしていた。
 朝九時から午後六時までのシフトだったので、丁度お昼ご飯の時間に休憩を挟むスケジュールだった。食べるのが好きだったので、私は休憩時間にはかならず何処かのお店に入って食事を取っていた。(プリパラに異常にハマっていた時期やブレイブルーに異常にハマっていた時期は休憩時間中ずっとゲーセンに走っていたので食事を抜いていた)

 

 その当時、私にはお気に入りの中華料理屋さんがあった。小さいお店だったが店員さんが明るく、何よりチンジャオロースが物凄く美味しかったのである。シャキシャキとした野菜、適度に濃い味付け、とろりとした豚肉……。うっかり笑顔になるような代物だった。おまけにチンジャオロース定食は安かった。学生にとっても優しい値段だ。

 

 私は気に入ったポケモンだけを集中して育てるような人間だった為、次の日もそのお店に行った。チンジャオロースは二日連続で食べても美味しかった。私には「美味しいものを食べると笑顔になる」という絵本の登場人物みたいな特徴があるので、にこにことチンジャオロースを食べていた。
 その時だった。女将さんが店の奥から出てきて私に話しかけてきたのだ。
「随分美味しそうに食べるねえ」
「いやあ、ここのチンジャオロース、凄く美味しいので!」
 そんな会話だけでその日は終わった。会計をしてバイトに戻る。


 変化があったのは翌週のことだった。一週間ぶりに店に行くと、チンジャオロースが多めに盛られてきたのだ。

 素直に嬉しかったのを覚えている。銀色の細い皿にこんもり盛られたチンジャオロースを見て笑う私に、女将さんは「こういうところでねえ、精を付けんといかんよ」と言った。どうやら野良犬のような風情の私を見て、栄養が足りていないように見えたらしい。実際その通りなのでありがたく頂いた。帰りがけに何度もお礼を言った。

 

 あれ? と思ったのは来店回数が五回を数えた辺りの話だった。
 気づけばチンジャオロースは山盛り、というよりオムライスに近い形になってきていた。銀色の細い皿が殆ど見えない。その頼りない玉座の上でチンジャオロースは悠然と私を待っていた。
 女将さんは笑顔で私のことを見ていた。愛を……感じる……。冷や汗を流しつつ、箸を差し入れる。殆どご飯と同量のチンジャオロースを食べるのは、いくら美味しくても苦行だった。私はそんなに沢山食べられる人間でもないのだ。
 それでも食べないわけにはいかなかった。目の前を白く染めながら、どうにか完食したのを覚えている。けれど、私は思った。もうこれ以上は無い。だって皿が見えない。ここまできたらもう白米の上に追いチンジャーをするしかないが、流石にそれはないだろう。女将さんの愛も物理には敵わないわけだ。

 

 ともあれ、それから一月ほどそのお店には行かなかった。別にチンジャオロースが嫌いになったわけじゃないが、流石に……こう……胃が……になったのである。

 

 それでも一月経てば、あの店のチンジャオロースが食べたくなった。あの量を思い出して若干尻込みしたものの、朝食を抜いていけばどうにかなると思った。傾向と対策だ。私は朝食を抜き、バイトをし、思う存分お腹を減らして意気揚々と店に行った。女将さんは「久しぶりねえ、忙しかった?」と言ってくれた。私は以前のようにチンジャオロースを頼み、オムライス型のチンジャオロースを倒すイメトレをし、『時』を待った。
 ややあって、女将さんがチンジャオロースを持ってきてくれた。


 皿が変わっていた。


 銀色の細い皿ではなく、白い陶器の丸い皿に変わっていた。
 油断していた。皿に盛れる量には限界がある。だから、あれ以上は無いと思っていた。愛は物理を超えられないと思っていた。けれど、そんなことはなかった。愛情の受け皿は増築され、チンジャオロースは元の三倍近くになっていた。もう食べられるとか食べられないとかそういう問題じゃないと思った。
 私はそれの三分の二を食べた辺りでギブアップし、会計時に女将さんに謝ってから逃げるように去って行った。

 敗走しながら思った。もうここには来られない。あれだけ美味しいチンジャオロースなのに、もう食べられない。別に自分が悪かったとは思わない。当然ながら女将さんも何も悪くない。むしろ、あんなによくしてくれた人はいなかった。でも、もう駄目だった。一体、何を間違えたんだろう?

 

 愛はたまに悲劇を生む。

 けれど、悲劇はそこで終わらなかった。人間が愛を求める限り、悲劇の幕は上がり続けるのだ。その舞台が、新たに出来た行きつけ、海鮮丼屋さんである。

 その店もまた、バイト先からほど近い小さなお店だった。店内の雰囲気も良く、店主さんは優しそうで、なおかつそこにはワンコインで食べられるワンコイン海鮮丼があった。どういう仕組みになっているのか分からないが、三種類の具材の載った海鮮丼が500円で食べられるのだ。私は海鮮が好きだ。北海道も好きだ。
 海老とマグロとサーモンの載った丼を前にして、私はまたしても笑顔になった。わさびをどかしながら(※この年になってもわさびが食べられないので、誰かわさびが大丈夫になる魔法の薬の情報をください)、笑顔で丼を食べていると、店主さんのお爺さんが私に話しかけてきた。


「やあ、美味しそうに食べるねえ」
「海鮮丼素晴らしすぎます、最高に美味しいです」

 デジャヴュを感じた。けれどここで「ガッデム!!!!!ほっといてくれ!!!!!」と言ったら出禁になってしまう。そのくらいはわかる。出来ればそんなことは言いたくない。店主さんは優しそうな人だし、何より500円丼を失いたくない。
 デジャヴュの影を無視して、翌週もそのお店に行った。店主さんは嬉しそうに私を出迎えてくれ、私はワンコイン丼を注文した。程なくして丼が来た。

 丼の具が4種類になっていた。おかしい、ワンコイン丼は三色丼のはずだ。店主さんの方を見たら、こっちを見て笑っていた。会釈をして食べ始める。美味しかった。多分、ちょっとしたサービスのつもりだったんだろう。私は会計の時にお礼を言って、店主さんの「また来てね」の言葉に笑顔で手を振った。

 次に来た時には、ワンコイン丼の具は五種類になり、その次の来店時にはイクラまで載るようになっていた。「あの、これ、中身が豪華になっているような……」と恐る恐る言ってみると「余ったの載せただけだから気にしないで!今日だけ!」と言われてしまった。
 まずい流れになってきたな、と思った。けれど、これは店主さんの愛だった。「気にしないで食べてって!」と言われると、残すのも悪い気がした。
 この時点でその店に行く頻度は格段に減っていたが、そうすると輪をかけて中身が豪華になり、カニ汁まで付くようになっていった。最早セットメニューだった。
カニ汁の分お支払いしますから!」と流石に言ったものの「今日は余ってるから」と言われればどうしようもなかった。会計はいつまでも500円のままだった。いよいよ店に行きづらくなり、それから三ヵ月ほど、その店に行くのをやめた。

 それでも食欲には勝てない。そこのお店は海鮮も勿論だが、丼の中に入っている沢庵が物凄く美味しいお店だった。他の場所でも海鮮は食べられるが、沢庵の再現は難しかった。それに、これだけ間が空いていればいいだろうという気にもなった。
 店主さんは笑顔で私を迎えてくれて「いやあ、心配してたよ。最近忙しかったの?」と尋ねてきた。適当に誤魔化しながら、ワンコイン丼を頼む。

 

 運ばれてきたのは、豪華な具の入った丼と、普通の味噌汁だった。

カニ汁、今日少なくて、普通の味噌汁でごめんね」

 店主さんが心底申し訳なさそうにそう言った。その日はお客さんが多くて、カニ汁が多く出たようなのだ。無料で私に出せるだけのカニ汁が無かったようなのだ。
 その瞬間、もう駄目だ、と思った。申し訳なさそうに言われたその言葉が致命的だった。本来つかないはずのカニ汁をサービスで貰っていたのに、それが今更普通の味噌汁に変わったところで、どうしてそんなに申し訳なさそうな顔をするのだろう。

 もう駄目だと思った。会計の時に、私は言う。

「大学卒業するので、もうここに来られなくなるかもしれないんです」
「ええ、そうなの? 寂しくなるね」
「今までありがとうございました。美味しかったです」

 店主さんは頑張れと何度も言ってくれて、最後に握手をして別れた。別に大学を卒業するからといってここに来られなくなるわけじゃなかった。そもそもその時には既に単位不足で留年が決まっていた。けれど、その日以来そのお店には行っていない。たまにそのお店を横切る時、もう覚えていないだろう、いやまだ覚えていてくれるはずだ、と勝手な感傷を覚える。けれど、それだけだ。

 

 ところで、私はその店主さんがそれはもう好きだったのである。


 急に何故こんなことを思い出したかというと、最近行きつけのカフェが出来たからで、そこのホットサンドが物凄く美味しいからで、そこの店主さんが、ホットサンドを頼むとサービスで小さなコーヒーゼリーを出してくれるようになったからで、全ては愛で回っている。



1000円自販機(高級カレー編)を語る

 

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 私はもう何も知らない子猫(キティ)ではないので、手の中の1000円がPS Vitaや3DSに変わるなんてことはそうそう無いと知っている。マジカル自販機による錬金術が発動することは殆ど無い。チュパカブラと遭遇するくらいの確率だ。私はもうそんなものに夢を見られない。

 だが、そんな私の前にこれが現れた。

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  い、いけそう〜!!! カレーなら選べそう!!

 

 このリアリティーラインに、私はいたく感動した。1000円はPS vitaにはならなそうだが、カレーにはなりそうである。だってカレーだから! ドリーミーラインとしてはかなり適切である。それに、カレーは食べられる。20日分のQOLが手に入るのだ。

 

 私は隣に居る親友に回していいかを尋ねた。そんなの好きにすればいいのだが、崖に向かって走る時は誰かの「頑張れ」が欲しい。回していいよ、との言葉と共に私は回した。カレーが当たったら友人と半分こしようと思った。ご当地カレーと聞いたので、東日本を友人が、西日本を私が食べようと思った。

 

そして出たのがこれ。

 

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 値札を免罪符にするんじゃない。

 私は親友とカレーを分け合いたかった。カレーの食べ比べ会を開いて「まあカレーって何でも美味しいよね〜」という予定調和的な結論を出したかった。

 カレーが食べたかった。 

 

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 回る。

 

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 自棄になったので、この知恵の輪が解けなければミステリーを書くのを止めるぞ! と喚きながらガチャガチャガチャガチャやり続けた。こんなものに人生を賭けるんじゃない。

 

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 解けた。断筆しなくて済んだ。

 

 私はもう何も知らない子鹿(リトル・ディアー)ではない。1000円で3DSが手に入るとは思わない。1000円自販機は賢者の石ではない。

 でも、カレーの絶妙さ加減は……隣に居る友人とカレーを食べるというドリーミーラインは……ハンドスピナーは……知恵の輪は……。

 

 

生ハムの原木を食べる会を語る

 

 コンビニで生ハムのパック(45g)を買った時、私はとても幸せだった。生ハムは美味しくて口当たりが良くて、ついでに生だからだ。生ハムが好きな理由にその名前がある。私は生きているものが好きなのだ。
 ところで、これを見て欲しい。

https://www.amazon.co.jp/dp/B076H3416P/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_mdsGBbFFZ82NH
 生ハムの原木だ。なんと4kgある。約4000gだ。物凄くざっくり計算すると、私がコンビニで買っている生ハムの88.8888889倍ある。つまり、私は生ハム原木を買うと普段の88.8888889倍幸せになれることになる。ということで、生ハムの原木が食べたくなった。私は幸せが好きなのだ。

 ここでは生ハムの原木を買って生ハム原木会をやるにあたっての覚書を書いていこうと思う。

 早速知り合いという知り合いに声をかけ「生ハム原木会」をやろうと唆し、Amazonで生ハム原木を買うと、原木会をやらせてくれる仁義を重んじてそうな先輩の家に送った。ゲラを読みながらLINEを閉じたり開いたりしていると、到着の報告があった。この時点で幸せメーターは振り切れていた。
 これが先輩の撮ってくれた生ハムの写真だ。

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 大きい。バドミントンラケットよりも大きく重いので、人を殺すことも可能である。*1。これはミステリー作家としてとりあえず触れておいただけなので、別に私がすぐに殺意を連想する人間というわけではない。この状態のまま、生ハムを室温に慣らす為に放置する必要がある。本当は3日くらいこうしておくといいらしいのだが、生ハムが届いた日が会の1日前だったので、1日だけの放置にした。LINEで先輩にお願いをしていると「遠隔で爆弾解体してる人の気分だ」とのお言葉を頂いた。確かに、真っ昼間に送られてくる肉塊は爆弾に等しいだろうし、真っ昼間から生ハムを受け取らせる後輩は地雷だ。間違っていない。

 そして、1日の放置を経て、生ハム原木会だ。
 まずはビニールを剥いて、カビに覆われている生ハムをオリーブオイルのついたキッチンペーパーでゴシゴシ磨いていく。必要な工程なのだが、正直4kgの肉塊を磨くのは並大抵のことでなく、この時点で生ハム原木の過酷さに気が付いてしまった。力を入れてゴシゴシ磨いていると手伝ってくれている友人がグロッキーになっていた。肉塊を前にすると、心が壊れてしまうのかもしれない。私は可愛い子犬を拭いているイメージで脳を騙した*2ので、どうにかやり遂げることが出来た。

 そうして磨きあがった生ハム原木がこれだ。

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 なかなかいい具合だ。
 ちなみに、この時はテンションが上がって気が付かなかったのだが、これは置き方を完全に間違えている。冷静に考えたらバランスが悪すぎるのだが、人生のバランスもぶっ壊れているので、物事を冷静に見られないのだ。この状態でナイフを入れたらどう見ても転覆するだろ。
 正しくはこうなる。クジラみたいでいいですね。

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 ともあれ、生ハムが磨き終わったら、あとは食べるだけだ。
 今回の生ハム原木会には10人の精鋭が集まった。これならイカした渋谷区のパーティーっぽくなるはずである。期待に胸が躍る。以前、宅飲み会に4kgのそうめんを持ち込んだ時にはブーイングを食らったものだが、4kgの肉塊の時はみんながはしゃいでいた。小麦粉には無いグルーヴが肉塊にはある! 私達は喜び勇んで生ハム原木にナイフを入れた。
 だが、そこで誤算に気づいた。

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 生ハム原木は固いのだ。
 喜び勇んでナイフを手に取ったものの、正直全く削れなかった。

 作業を見ていた先輩の一人が「生ハム原木って響きはお洒落なのに原木見るとマジで蛮族」と言っていたのだが、本当にそうなのだ。相手は肉塊であり、18か月も吊るされていたハングドミートである。原木が似合うのは山賊くらいのものだろう。
 私は山賊ではなかった。生まれは海の方だった。
 普段は小説を書くかソシャゲをするかしかしていない人間である。そんな人間が人を殺せるだけの硬さの生ハムを削り取れるはずがない。私は殆ど日光に当たらない上に外にも出ないので、どちらかといえば立場が生ハムに近い。(生ハムは日の当たらない蔵に吊るして作られる)
 文字通り歯が立たない有様だったので、原木には「生ハムが生ハムを食べようなんて片腹痛いわ(笑)」と思われていたかもしれない。赦さない。原木は足だけなので腹は無い。二重に赦せない。

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 とはいえ、非力な私が出来ることはあまりなく、結局は滅茶苦茶料理の上手い先輩が生ハムを削いでいくこととなった。手際が良いので、生ハム原木が征服されていく様が写真からも見て取れる。ここで重要なことが分かるのだが生ハム原木は料理が上手く力もある人間でないと手を出せない代物なのだ。あなたがもしブルース・ウィリスチャック・ノリスでないならば、身体を鍛えないといけないかもしれない。

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 ともあれ、完全な他力本願で出来た生ハムは色つやがよく、とても美味しかった。市販のものよりもやや硬く、塩味が強いのだが、とにかく美味しい。原木を買って食べる一番の良さというのは恐らくここにある。ある程度の厚みと硬さがある生ハムを食べる機会はなかなか無いからだ。原木から切り出した生ハムはジャーキーのような弾力があり、塩味が濃いが仄かに肉の甘みがする。みんなで持ち寄ったメロン無花果パンチーズと一緒に食べると信じられないくらい美味しかった。
 生ハムを切り出している時は山賊かもしれないが、みんなで食べ始めるとそこは渋谷区のパーティーであった。クラッカーとミラーボールを用意していなかったことを後悔するくらいだ。
 唯一の後悔といえば、そういったラグジュアリーな場面の写真が殆ど残っていないことである。食べるのに必死だといきなり写真が面倒になる。人間なんてそんなものだ。

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 生ハムだけ食べてるとどうしても飽きてくるので、そういう時は生ハムの油と生ハム本体を使ってペペロンチーノを作るのもいい。まあ、作ったのはさっきから頑張ってくれている料理の上手い先輩なのだが、したり顔で薦めておく。ここまでくるとその先輩の料理ブログのようになっている。
 生ハム原木からは大量の固形の油が取れる。これが料理に活用出来るのだ。やったことはないので憶測で話をするが、チャーハンなんかも美味しいかもしれない。油を直接食べると、生ハム2クリック圏の油の味がする。

 会が終盤に近付いて来る頃には全員が出来上がっており、前後不覚な状態である為生ハムどころじゃなくなってきたのだが、その頃には先輩の捌きっぷりも堂に入っており、生ハムは殆ど解体された。汗を流しながら「生ハムに勝ちたい」と言っていた辺り、肉塊というのは人間の闘争本能を刺激するのかもしれない。

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 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ*3

 それで結局、生ハム原木は私に88.8888889倍の幸福を与えてくれたのか、という話なのだが、とにかく原木から生ハムを切り出す手間を考えた場合、生ハムは買った方が全然いい。今回だって、生ハムを受け取ってくれた先輩や料理をしてくれた先輩が居なければ話にならなかったというのが本音である。原木はそこにあるだけで渋谷区のパーティーピープルにしてくれるマジックアイテムではないのだ。

 だが、原木を見て蛮族だな~と言っていた先輩が終わり際に言った至言がある。それは「生ハム原木はパーティー力が強い」というものだ。
 私たちは普段、日常の文脈に沿って生きている。それをアッパーに引き上げる為には、何かしらの飛び道具が必要なのだ。そういう意味で、生ハム原木はある種の鏑矢である。
 捻りの無い言い方になってしまうけれど、肉塊を前にはしゃぎにはしゃげるというのはやっぱり値千金であって、88.8888889倍とは言わないんだけど、まあ44.444444倍くらいの幸福度はあるのだ。


 

*1:ロアルド・ダール

*2:富田流は爆笑した直後に人を殺せる

*3:大納言公任:滝の水の音が聞こえなくなってずいぶん長い年月が経てしまったが、その評判だけは世の中に流れ伝わり、今日でも聞こえ知られているよ。

タワー・オブ・テラーから逃げ続けてきた人間の半生を語る

 先日友人とその話題になったので、懺悔の気持ちを込めて書いておく。何のことはないが、考えてみれば私の人生はタワー・オブ・テラーと共にあったので、ここに記録しておきたい。これから、十年以上隠し続けてきたことを告白する。

 私はタワー・オブ・テラーに乗ったことがないのに乗った振りをして生きてきた人間である。

 これを見ているリアルでの友人は驚き慄き、私との絶縁を考えるかもしれない。騙していて申し訳ない。自分の友人はタフな人間ばかりだと思っていただろうに、その中にこんなキティちゃんが混じっていたという怒りは筆舌に尽くし難いものがあるだろう。でも、それを隠し続けてきた私も辛かったのだ。理解して欲しい。

 私は絶叫マシンが苦手だ。理由は説明しなくても分かるだろう。というかあれの恐怖を一目で分からない人間がいたら少し心配になってしまう。あれ、絶対怖いものだろ。本能で逃げ出す類のものだろ。慄いてくれ……頼む……。

 けれど、私は絶叫マシンが苦手なキティであると同時に、押しに弱い格好つけでもあった。そんな人間が「怖くてタワー・オブ・テラーに乗れない」なんて言えるはずがない。だって格好悪い。今が江戸時代でなくて良かった。あの時代に生まれていたら、私は押しの弱さとこの格好つけで切腹をさせられていただろう。刀がその辺りに無くてよかった。忠臣蔵に巻き込まれなくてよかった。

 だから私は常に「絶叫マシンなんて全く怖くありませんよ」という顔をして生きてきた。タフな振りをするのは簡単だ。そもそも社会は恐ろしいところなので、タフな振りをしていないと生きていけないからだ。

 けれど、つらっと生きていた私に試練が訪れる。長く生きていると、直接的に「タワー・オブ・テラー」の話題を振られることがあるのだ。相手にとっては雑談の範疇だし、ディズニーシーは愉快な場所の位置づけなのだろう。しかし、私にとってそこは恐ろしい戦場でしかない。

 格好つけで怖がりな上に、私は嘘も下手だった。面白いくらい嘘がつけないので、何かを言ってもすぐバレる。身体が正直なのだ。嘘を吐くと目が泳ぐって何なんだ、魚か。そんな私が目を泳がせ、声を震わせながら「タワー・オブ・テラーに乗ったことがある」と言ったらどうなるか? すぐさま嘘と見ぬかれ、精神の血祭りが始まり、弾劾裁判が始まるだろう。嘘を吐くことは出来ない。けれど、正直に自分が雑魚だということを告白したくもない。それならどうすればいいか? 解決策は一つしかない。 

 『嘘を吐かない』かつ『乗ったように見せかける』台詞の開発である。

 「タワー・オブ・テラーに乗った」と言ってしまえばそれは嘘だ。すぐバレるだろう。けれど「怖くてタワー・オブ・テラーに乗ったことがない」と言ってしまえば心の柔らかいところに刃を刺し込むことになる。だから、私は以下のような台詞で乗り切ることにした。


タワー・オブ・テラー、怖いよね」

 

 嘘を言っているわけではない。怖いからね。
 これを訳知り顔で言うだけで『乗ったことのある人』っぽくなるのだ。嘘を吐いているわけではないので、動揺が出るわけでもない。こうして素直に「怖いよね」と言ってしまうことで「素直に相手の力量を認められるタフガイ」のような貫禄が出てくるくらいだ。友人もそれで納得してくれたのか「意外と怖いよね」と言ってくれた。意外じゃないだろ。順当に怖いだろ。

 しかし、私の人生にはなおもタワー・オブ・テラーの話題が付きまとってきた。「タワー・オブ・テラーどう?」と友人が笑顔で聞いてくる。まるで秘密警察の尋問のようだ。けれど、私は既にディストピア小説を何本も読んでいた。タワー・オブ・テラーも進化していただろうが、私も成長しているのだ。私はニヒルな笑顔で言う。

 

タワー・オブ・テラーのあの人形、怖いよね」


 一歩踏み込んで造形美術の方に目を向けてみる高等技術である。これを言う人間がまさか「乗ったことがない」なんて思うだろうか? いや、思わない。アトラクション部分の『怖さ』は既に超えた真のヒューマンの言う台詞だ。物理ではなく精神、あくまで精神的な恐怖を説く。何故なら、私は、もうその段階にいないからだ……。
 友人は「え、そう?」と言っていたが、乗ったかどうかには疑問を抱かなかった。銃で撃たれた跡を誤魔化す為に杭で刺すような荒業だが、これも上手くいった。

 私の進化は止まらない。タワー・オブ・テラーは今日も私を脅かし続けているが、完全抗戦の姿勢を見せた私に隙は無い。私は『ディズニー・シー完全攻略ガイド』を購入し、タワー・オブ・テラーの特集ページを読み込んで、どうやらアトラクションが始まる前の段階で、あの謎の怖い人形が消える演出があるという情報を得る。凄い技術だ。これを利用しない手はない。私はすっかり馴染んだタフガイの笑顔で言う。


「あの人形、消えるよね」

  我ながら完璧だ。これは完全に乗った人間の言葉だ。しかも嘘を言っているわけでもない。完全攻略ガイドが嘘を吐くはずがない。何せ校閲さんが入っているのだから、間違っていることはほぼ無いだろう。ここまでくると本当に私は乗ったも同然である。校閲さんが私をタワー・オブ・テラーに『乗せた』のだ。
 友人は私の言葉を深く突っ込まず「あれ何で消えるんだろうね? 不思議だなあ」と言っていた。不思議なものが好きなので、実際に見てみたいが、その先に持っているものが怖くて見られない。どうしてタワー・オブ・テラータワー・オブ・テラーなのか。人形が消えるだけじゃ駄目だったのか。何故……。

 そして、今になっても私はタワー・オブ・テラーに乗ったことがない。既にタワー・オブ・テラーは私の中で膨れ上がり、肉感を持った恐怖の概念になってしまった。
 人形は本当に消えるのか? そもそも人形は本当に怖いのか? いつもは明るい安全な場所で見ているからよく分からないんだ……。チチカカに売っていそうだな、くらいの印象しかない……。私はタワー・オブ・テラーのことを、本当は何も理解していない。

 時々、訳もなく泣き喚きたくなる。私がいけしゃあしゃあと「乗ったことがある」と言えるようになれば、あるいは素直に「怖くて乗れない」と告白出来るようになれば。そうすればさっきのような曖昧な言葉で誤魔化さなくても済むのに。

 タワー・オブ・テラーは呪われたホテルをモチーフにしたアトラクションだという。ゲストはその呪われたホテルに足を踏み入れた不届き者であり、それが原因で恐怖の体験をすることになる。それを聞いた時、思わず乾いた笑いが出た。

 私は乗ってもいないのにタワー・オブ・テラーに呪われているのだ。

 ちなみにボードゲームで嘘を吐くのは得意である。バレても怒られないからだ。ついでにここで告解しておくと、友人とボードゲームをやる度に、私はとりあえずルールがわからない振りをする。親切な友人や先輩がルールを説明してくれるのを真面目に聞けば下準備は完成だ。初心者の振りをすれば体感八割勝てる。人間は、生まれたばかりの子供に刺される自分を想像しない。これからはこのメソッドでボードゲームをやって欲しい。「大丈夫? ルールわからないところある?」と聞かれたらしめたものだ。説明書を読みながら首を傾げ、油断している相手を倒そう。

 だから友人がいないのでは? そうかもしれない。

 というか本当にタワー・オブ・テラーに乗ったことがある人間は存在するんですか? 本当は地球上の誰もあれに乗ったことが無いのでは? 同じように回避してきた人間がいるんじゃないか? 一体、タワー・オブ・テラーとは? 一体……?