どうにもピーキーな記憶力を語る


 記憶力がピーキーである。自分の記憶力がどれくらい使いにくいかというと、ロマン砲くらい使いにくい。特定のものに対する記憶力は働くのだが、覚えられないことは全然覚えられない。まあ、読んで面白かった小説や観て感動した映画のことは忘れないので、それはそれでいいと思っていた。スティーヴン・キングの「しなやかな銃弾のバラード」より覚えておかなければいけない物事なんてそうそうない。

 

 しかし、そうも言っていられなくなってきた……とここ数年感じている。
 発端は確かプチ同窓会だった気がする。私は基本的に誘われれば何処にでも行くので、その集まりにもパキパキ参加しに行った。
 そして驚いた。中学時代に友人だったりクラスメイトだったりしたみんなのことが全く分からないのである。今でも交流がある親友や幼なじみとは普通に会話が出来るのだが、曲がりなりにも三年一緒にいたはずの旧友……のことが他人としか思えない。みんなは自分に思い出を語ってくれるが、それが全く思い出せないので、自分の名前が代入された知らない誰かの名前を聞いているような気分になり、最終的にはもう知らないみんなとの和やかパーティーを楽しもうの気持ちで楽しんで帰った。

 

 これはまずい! と思った。流石に忘れていたとしても、話しているうちに思い出すことがあっていいはずだ。しかし、中学時代の思い出よりもまだ「ダレン・シャン」の話された方が語れる。これは本当にまずいと思った。興味が無いことから忘れていくのは記憶力の常だが、生で体験した思い出よりも鏡家サーガ周りの思い出が強く残ってるのはどうなんだ?

 

 その同窓会以来、私は自分の記憶力に一定の法則を見出すようになった。
 ・自分に関するエピソード、ないし今でも交流のある親友と行ったことややったことなどのエピソードは鮮明に覚えていられる。
 ・当時一緒に遊んでいたが今は交流が無い友人はエピソードも本人の名前も忘れてしまい、初対面とほぼ同じになる。
 ・大体二年周期でどんどん人の名前や顔を忘れていく。
 ・読んだ本とかやったゲームのことはあんまり忘れない。

 

 こんなソシャゲのログインみたいな記憶方式があるかよ! でも、仕方がない。しかし、気づいた時には中学時代の友人も、高校の時の後輩も、割と大きく忘れてしまっていた。
 特に高校の時の後輩は公私ともに深く関わり、二人で過ごしたエピソードは覚えているし、撮った写真やもらった手紙は残っている相手なのに、肝心の名前を忘れてしまっていた。(私は彼女の名前を渾名でしか登録しておらず、残っているものは全部渾名表記だった)


 このことはショックだった。今でも彼女の名前は思い出せていないので、写真を見る度に悲しい気持ちになっている。高校時代に大きく影響を受けた先輩についても、実は渾名しか把握していない。写真はあるし、手紙もあるし、もらったプレゼントも残っているのだが、本名を忘れてしまった。しかし、この先輩後輩については当時の日記に残っていたりするので、エピソード面はばっちりである。……本名すら忘れてしまったのにどうなのか、というのもあるが。

 

 この教訓を生かし、私は自分の記憶を外部に委託することにした。
 今のところ忘れたくないことは全部日記につけている。
 文章を書くのを職業にしているだけあって、日記をつけるのは楽しく、手帳に観たものや感じたこと、夢から食べたものまで全部記録している。友人が出来たらなるべく写真を撮らせてもらい、裏側に渾名と本名を明記している。旅行写真の裏にも全員分の名前と、忘れたくないことを書いている。


 しかし、この日記というのもそこまで確実ではない。というのも、この間うっかり参照を忘れていた五年前の出来事が書かれた日記を読んだのだが、かなり距離が遠くなっていたからだ。確かに覚えていなくはないのだが、まるで小説を読んでいるような気分になる。「シラノ・ド・ベルジュラック」を読んだ時と自分の日記を読んだ時の感覚が大して変わらないのである。感情移入は出来るが、シラノが亡霊に高らかに名乗りを上げるシーンを自分の過去には出来ない。
それと同じく、自分が花火をしているシーンを自分の過去には出来ない。桃太郎を読んで、自分が鬼退治に行ったと思えないのと同じだ。でも、全部忘れてしまうよりはいい。

 

 幸いながら大学時代の友人とはまだ交流があるので、大学関連のエピソードは沢山覚えている。大学一年生の頃からの思い出を保持出来ているのは自分にとっては快挙だ。それに反して、大学入学したての時に私が入っていたらしい『何かのサークル』のことはもう覚えていない。早々にやめてしまい、サークル仲間との交流が途絶えたからだ。私は確かに何か文学サークルとは別のサークルに所属していたはずなのに、何に入ったのかが思い出せない。日記に記述が無く、写真も少ないので多分そこまで覚えておきたいものではなかったのだろうが、それでも少し寂しく思う。
 反面、かつて絶対に大切だった相手との思い出を取りこぼしてしまっていることもあって、日記に何度も名前が出てくるのに、具体的に何をしたのかを忘れてしまった相手もいる。出会いが博物館であったことだけは記載されているのに、そこで二人で何を見たのか、どんなことを感じたのか、私はその人を尊敬していたらしいが、何を具体的に尊んでいたのか、詳しく書かれていないので忘れてしまった。この日記の手落ちは一番腹立たしくなるパターンだ。
 とはいえ太宰治の墓の前で好きな子に告白して普通に振られたことを覚えていたりもする。これは記憶力のバグである。彼女に振られた瞬間にめちゃくちゃ雨が降ってきたことも覚えている。これの所為で二度と太宰治の墓に参れなくなった。桜桃忌の度にうわっという気分になる。どういうことだよ。脳って本当にわけがわからないですね。

 

 そんなこんなで何とか生活をしている。手書きの小さい字で日記をつけ、小説を書いている。記憶力は全く良くならず、それはそれとして読んだ小説のことは割と覚えているし、一回だけ観たが別に好きでもない「レディ・イン・ザ・ウォーター」の台詞は覚えていられる。私は人間の脳が映画や小説を詰め込んだ分だけ思い出がはみ出るような仕様だとは思っていないので、多分これは私個人の何かしら……固有デバフのようなものなのだろう。

 

 忘れっぽいくせに、私は忘れるのが苦手である。私が人生で出会った人はみんないい人だった。(悪かった人を全員忘れてしまったからかもしれない)楽しく過ごしている度に「忘れたくない!!!」と口に出して言ったりもする。それでも取りこぼしは発生してしまって、この間は壁に貼っていた写真の友人の名前を忘れてしまった。古い写真なので裏には名前がなかった。
 こんなことをつらつら今でも交流のある友人に話すと、「でもまあ、職業的に何を書いてたかは残るんだし、斜線堂先生が何考えてたかはみんなが覚えてるよ」と言われた。それって結局自分自身は忘れちゃうんじゃないか? と思いつつ、じゃあ自分が好きな今の君のことを、私はこっそり小説の何処かに書いておくか、と思った次第である。私を見つけてくれた世界、少しだけ私の大切なものを一緒に覚えていてほしい。

 

 とか言ってるのに、遥か昔のデレマスの思い出や荒木比奈にSRが来なかったことは鮮明に覚えてるんだよな。これはスティグマなんだ。そういうことだ。