斜線堂有紀の2020年を語る

 

 あけましておめでとうございます。斜線堂有紀です。

 

 個人的な転機であった2020年を振り返る記事を書かないのもな、と思ったので書いておこうと思います。正直、目が回るほど忙しかった! 1月から12月までずっと走り続けていた気がします。本当に楽しかったです。支えてくださった読者の皆さん本当にありがとうございます。小説家になりたかったのは、毎日小説を書いていたいなと思ったからなのですが、その夢が叶っている現状以上に嬉しいことはないです。

 

 思い出深いのは、やはり楽園とは探偵の不在なりのランキング入りでしょうか。自分の好きな講談社ノベルスのあの空気を沢山オマージュした作品が評価して頂けたのが嬉しかったです。この小説は、高校生の自分が読んだら好きになるタイプの本格ミステリだろうと思いながら仕上げました。最終的に「ミステリが読みたい!」2位、「このミス」6位「文春ミステリランキング」3位、「2020本格ミステリ・ベスト10」4位でした。傾向の違うランキングで評価して頂けたことも嬉しい。こんなことがあっていいのか。かくありたい。

 ちなみに、ランキング入りを受けて紀伊國屋書店新宿本店さんでは斜線堂有紀おめでとうフェアをやって頂いています。こんなことが!? 


 ありがたくて伏して拝んでいます。紀伊國屋書店新宿本店さん、今年もよろしくお願いします。ところで、新宿の女神という肩書だったんですね。FGO出演が見えてきたな。

 あとは、今年は小説外の仕事も沢山ありました。2019年の「奉神軍紀に続き魔法少女には向かない職業」の漫画原作を担当しています。こちらはプロットの形で作画の片山先生にお渡ししているのですが、この仕事は毎月の原稿をこなしながら成長しているような状態なので、楽しくも大変です。この仕事を通して分かったことは、自分が情景を文章で想像する側の人間であることと、漫画的な絵作りと小説の絵作りがまるで違うことですね。自分は小説において地の文をかなり補完装置として使っているので、使えない場ではまた別の武器を用いなければならない。最初の読み切りや連載当初よりは確実に進歩しているので、更に学びつつ、小説にフィード出来るといいなと思います。

 地の文に頼れないといえば、今年は「神神化身」があって、これも個人的にはかなりの転機でした。というか、やったことがない仕事ですね。こちらでは、キャラクター設定から全て携わらせて頂いているので、色々な意味で特別なコンテンツです。これも小説とは別の主体としてボイスドラマがあるのですが、地の文が無い! なので、台詞とディレクションのみで意図を伝えなければならず、色々と悩むこともありました。小説家としては三年でも脚本家としては駆け出しなので……。
 その中でも、あれだけ完成度のものが作れたのは、偏にキャストの皆さんとプロデューサーさんのお陰です。感謝ですね。
 「神神化身」はお手紙などでも紙の本なら読みたいと言われる率が高いコンテンツなので、こう、三月の書籍版を楽しみにして頂けると嬉しい限りです。いや、歌も聴いて欲しいんですけどね!!

www.youtube.com

 覇権を狙っていくぞ!! 完全にノリがラブライブ!になってきた。コンテンツの形態が似てますもんね。書籍版はSid。あるいは「ドームですよっ!ドームっっ!」
 そういうわけでボイスドラマや朗読など脚本を書かせて頂く機会が思いのほか多かったので、過去の名作舞台のアーカイブや脚本集を読んだりしていました。この方面も、もっと勉強しておくべきだったと痛感しました。ですが、今できる全力を出し切っていこうと思います。この『脚本』周りは神神化身以外にも、2021年にも色々とある予定なので──何なら早くにある予定なので、奮闘を見守ってください。小説以外も斜線堂作品は面白いですよ!

 と、小説以外の仕事の話ばかりしてしまいましたが、小説を一番書いた一年でもありました。小説家は依頼が無いと始まらないので、小説をいっぱい書いたということは依頼をいっぱい頂いたということなんですが、これが一番嬉しかったです。読者の方に恵まれた作家である自覚があるのですが、そうして皆さんが見つけてくれて、小説家にしてくださったんだな、と強く思います。大事なことは大体ラブライブ!で学び、スティグマアイマスで刻んだのですが『僕と君で来たよここまで みんなの想いが届いたよありがとう ついに一緒に来たよ楽しもう』(KiRa-KiRa Sensation!)感が凄いです。
 μ'sの初めてのCDって434枚という順風満帆とは呼べない売り上げだったんですけど、初期のファンの方が支えてくださってみんなで叶えた物語になったんですよね。私は自分の作家人生を振り返る時にいつもμ'sの道程を考えて、重ねてしまうんですよ。
 まだまだ全然目指す場所には辿り着いていないし、駆け出しなんですけど、今でさえ自分にとっては奇跡だと思っています。デビューから今まで、折れそうになったことが何度もあって、それでも小説家でいられたのは皆さんのお陰です。これは荒木比奈エッセイ(今読み直して気づいたんですけど、このエッセイ8,000超あるの? よく載ったな)でも言ったんですけど、私にとっての小説の神様でいてくださった皆さんに感謝しています。

 2021年も、楽しく夢を叶え続けていけたらな、と思います。
 1月8日には新刊「ゴールデンタイムの消費期限」が発売されますので、よろしければ2021年の斜線堂有紀をお手にとってみてください。
 自分が才能の話を書くとちょっとえぐい話になりがちだったのですが、そして今回もキツい部分は沢山あるのですが、今までとはちょっと違った物語になっていると思います。一つ言えることは、多分今の自分でなければこの物語は書けなかったし、肯定出来なかったということです。よろしければ、初めての『青春小説』をよろしくお願い致します。

 楽しく小説書きます。一生小説書くからね!!
 あとここを覗きに来ている出版関係の方はご依頼お待ちしています!!
 以下は雑記です。

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人生初の羊羹を語る

 生まれて初めて羊羹を食べた。

 


 二十五年以上生きているが、羊羹を食べたことが無いと言ったら、どんな人生を送ってきたんだと言われてしまったが、割と普通に生きてきたものの羊羹を回避しながら生きてきてしまった。あんこは嫌いじゃないし、むしろ好き。というか羊羹を食べた人がそんなに沢山いるというのも信じられない。価値観のパラダイムシフトだよ。

 甘い物は好きだったように思う。小さい頃に好きだったものはミルクレープと消えちゃう!!キャンディ。自分の住んでいた地域にはこのみせかしやという大きなお菓子屋さんがあって、そこに行くと籠一つ分のおかしを選んでいいことになっていた。私は嬉々として籠にポケパチを入れていた。つまり、幼い頃からおやつの選択権が子供である自分にあったのだ。

 ここで問題だ。どう考えても選択肢に羊羹がポップしないのである。
 
 ここで羊羹をいきなり選ぶのはかなりハードルが高い。羊羹にはピカチュウもついていないし、パチパチの飴もついていない。子供にとって羊羹とは黒い四角以上の何ものでもないのである。子供が羊羹を食べたいと言い出さないから、両親も羊羹を食べさせようという気持ちにならない。小さい頃の自分にとっては羊羹とはドラえもんのび太くんがごく稀に食べているもの、というイメージであるが、のび太くんはおやつのアイスには大喜びするものの、羊羹ではあまりはしゃがないのである。結構淡々と食べている。なので食指が動かなかった。
 おまけに羊羹の老舗、とらやさんと言えば父がよく取引先に持って行くものの筆頭だった。とらやの羊羹は何か偉い人が食べるものなのだなというイメージが付いてしまい、ただの民草である自分がわたパチと一緒に食べるものではないのだなと思ってしまった。


 そういうわけで、羊羹を食べずに育ったのである。
 正確に言うなら羊羹を食べるタイミングを失い続けてここまで来たのである。

 そうしたら、みんなは知らない間に羊羹を食べて大人になっていた。嘘だろ、みんないつの間に食べていたんだ。みんなのファースト羊羹はいつですか? それは自ら選び取ったものですか? どうせ自我の無い羊羹(自我が無いときにサッと出されてうっかり食べてしまった羊羹)だろう。

 私は違う。大人になって自分で選んだ自我羊羹だ。

 リプライでとらやさんのものとセブンイレブンさんの羊羹を勧められたので、両方買ってみることにした。

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とらやさんの羊羹にはポエムが書いてある


 とらやさんで「一番基本的なものをください」と言ったら『夜の梅』を勧められた。とらやの羊羹は夜から始まる。

 そして、私は食べた。自我のある状態で、羊羹を。

 

 

 あんこ味のゼリーの味がした。

 


 イメージ的にもっと衝撃的な甘さを想像していたのだが、鯛焼きの中のあんこなどより数倍すっきりしていた。さらさら食べられる。とらやさんのは外側のつるつるの部分がいいアクセントになっていて、舌触りがよくなめらかだった。あんこってこんなになめらかになるんだな。一方、セブンイレブンさんのは私が想像していた羊羹に近かったような気がする。まめまめしく、しっかりと甘い。これはのっしりとした重みと甘さがあり、ゼリー感は薄かった。

 これが羊羹か……と思った。夏に食べるのにいい甘みだ。
 Twitterでこんなにみんなが羊羹を食べていると知らなかったら、一生食べることはなかったと思う。

 今、世界がこんなことになってしまって、目新しい挑戦をするのが難しくなってきているように思う。自分は旅行が好きだったので、特に海外に行けなくなってしまったのは悲しい。けれど、冒険は身近にもあるものなのだ。今日は初めての羊羹に感動したので書いておこうと思う。

 ところで、みんなはあんみつを食べたことはあるんですか? それは自我のあるあんみつですか? あんみつとは……。

どうにもピーキーな記憶力を語る


 記憶力がピーキーである。自分の記憶力がどれくらい使いにくいかというと、ロマン砲くらい使いにくい。特定のものに対する記憶力は働くのだが、覚えられないことは全然覚えられない。まあ、読んで面白かった小説や観て感動した映画のことは忘れないので、それはそれでいいと思っていた。スティーヴン・キングの「しなやかな銃弾のバラード」より覚えておかなければいけない物事なんてそうそうない。

 

 しかし、そうも言っていられなくなってきた……とここ数年感じている。
 発端は確かプチ同窓会だった気がする。私は基本的に誘われれば何処にでも行くので、その集まりにもパキパキ参加しに行った。
 そして驚いた。中学時代に友人だったりクラスメイトだったりしたみんなのことが全く分からないのである。今でも交流がある親友や幼なじみとは普通に会話が出来るのだが、曲がりなりにも三年一緒にいたはずの旧友……のことが他人としか思えない。みんなは自分に思い出を語ってくれるが、それが全く思い出せないので、自分の名前が代入された知らない誰かの名前を聞いているような気分になり、最終的にはもう知らないみんなとの和やかパーティーを楽しもうの気持ちで楽しんで帰った。

 

 これはまずい! と思った。流石に忘れていたとしても、話しているうちに思い出すことがあっていいはずだ。しかし、中学時代の思い出よりもまだ「ダレン・シャン」の話された方が語れる。これは本当にまずいと思った。興味が無いことから忘れていくのは記憶力の常だが、生で体験した思い出よりも鏡家サーガ周りの思い出が強く残ってるのはどうなんだ?

 

 その同窓会以来、私は自分の記憶力に一定の法則を見出すようになった。
 ・自分に関するエピソード、ないし今でも交流のある親友と行ったことややったことなどのエピソードは鮮明に覚えていられる。
 ・当時一緒に遊んでいたが今は交流が無い友人はエピソードも本人の名前も忘れてしまい、初対面とほぼ同じになる。
 ・大体二年周期でどんどん人の名前や顔を忘れていく。
 ・読んだ本とかやったゲームのことはあんまり忘れない。

 

 こんなソシャゲのログインみたいな記憶方式があるかよ! でも、仕方がない。しかし、気づいた時には中学時代の友人も、高校の時の後輩も、割と大きく忘れてしまっていた。
 特に高校の時の後輩は公私ともに深く関わり、二人で過ごしたエピソードは覚えているし、撮った写真やもらった手紙は残っている相手なのに、肝心の名前を忘れてしまっていた。(私は彼女の名前を渾名でしか登録しておらず、残っているものは全部渾名表記だった)


 このことはショックだった。今でも彼女の名前は思い出せていないので、写真を見る度に悲しい気持ちになっている。高校時代に大きく影響を受けた先輩についても、実は渾名しか把握していない。写真はあるし、手紙もあるし、もらったプレゼントも残っているのだが、本名を忘れてしまった。しかし、この先輩後輩については当時の日記に残っていたりするので、エピソード面はばっちりである。……本名すら忘れてしまったのにどうなのか、というのもあるが。

 

 この教訓を生かし、私は自分の記憶を外部に委託することにした。
 今のところ忘れたくないことは全部日記につけている。
 文章を書くのを職業にしているだけあって、日記をつけるのは楽しく、手帳に観たものや感じたこと、夢から食べたものまで全部記録している。友人が出来たらなるべく写真を撮らせてもらい、裏側に渾名と本名を明記している。旅行写真の裏にも全員分の名前と、忘れたくないことを書いている。


 しかし、この日記というのもそこまで確実ではない。というのも、この間うっかり参照を忘れていた五年前の出来事が書かれた日記を読んだのだが、かなり距離が遠くなっていたからだ。確かに覚えていなくはないのだが、まるで小説を読んでいるような気分になる。「シラノ・ド・ベルジュラック」を読んだ時と自分の日記を読んだ時の感覚が大して変わらないのである。感情移入は出来るが、シラノが亡霊に高らかに名乗りを上げるシーンを自分の過去には出来ない。
それと同じく、自分が花火をしているシーンを自分の過去には出来ない。桃太郎を読んで、自分が鬼退治に行ったと思えないのと同じだ。でも、全部忘れてしまうよりはいい。

 

 幸いながら大学時代の友人とはまだ交流があるので、大学関連のエピソードは沢山覚えている。大学一年生の頃からの思い出を保持出来ているのは自分にとっては快挙だ。それに反して、大学入学したての時に私が入っていたらしい『何かのサークル』のことはもう覚えていない。早々にやめてしまい、サークル仲間との交流が途絶えたからだ。私は確かに何か文学サークルとは別のサークルに所属していたはずなのに、何に入ったのかが思い出せない。日記に記述が無く、写真も少ないので多分そこまで覚えておきたいものではなかったのだろうが、それでも少し寂しく思う。
 反面、かつて絶対に大切だった相手との思い出を取りこぼしてしまっていることもあって、日記に何度も名前が出てくるのに、具体的に何をしたのかを忘れてしまった相手もいる。出会いが博物館であったことだけは記載されているのに、そこで二人で何を見たのか、どんなことを感じたのか、私はその人を尊敬していたらしいが、何を具体的に尊んでいたのか、詳しく書かれていないので忘れてしまった。この日記の手落ちは一番腹立たしくなるパターンだ。
 とはいえ太宰治の墓の前で好きな子に告白して普通に振られたことを覚えていたりもする。これは記憶力のバグである。彼女に振られた瞬間にめちゃくちゃ雨が降ってきたことも覚えている。これの所為で二度と太宰治の墓に参れなくなった。桜桃忌の度にうわっという気分になる。どういうことだよ。脳って本当にわけがわからないですね。

 

 そんなこんなで何とか生活をしている。手書きの小さい字で日記をつけ、小説を書いている。記憶力は全く良くならず、それはそれとして読んだ小説のことは割と覚えているし、一回だけ観たが別に好きでもない「レディ・イン・ザ・ウォーター」の台詞は覚えていられる。私は人間の脳が映画や小説を詰め込んだ分だけ思い出がはみ出るような仕様だとは思っていないので、多分これは私個人の何かしら……固有デバフのようなものなのだろう。

 

 忘れっぽいくせに、私は忘れるのが苦手である。私が人生で出会った人はみんないい人だった。(悪かった人を全員忘れてしまったからかもしれない)楽しく過ごしている度に「忘れたくない!!!」と口に出して言ったりもする。それでも取りこぼしは発生してしまって、この間は壁に貼っていた写真の友人の名前を忘れてしまった。古い写真なので裏には名前がなかった。
 こんなことをつらつら今でも交流のある友人に話すと、「でもまあ、職業的に何を書いてたかは残るんだし、斜線堂先生が何考えてたかはみんなが覚えてるよ」と言われた。それって結局自分自身は忘れちゃうんじゃないか? と思いつつ、じゃあ自分が好きな今の君のことを、私はこっそり小説の何処かに書いておくか、と思った次第である。私を見つけてくれた世界、少しだけ私の大切なものを一緒に覚えていてほしい。

 

 とか言ってるのに、遥か昔のデレマスの思い出や荒木比奈にSRが来なかったことは鮮明に覚えてるんだよな。これはスティグマなんだ。そういうことだ。

 

助けて!眠れないんだ!あるいは『永遠の遠足前』を語る

 

 眠れないんですよ!!!

 

 いや、本当に眠れなくて困っている。こんな記事を書いている場合じゃないのだが、私はちゃんとお風呂に入り12時前にベッドに入ったのだ……。それから2時間も天井を見つめ続けてたらこうもなってしまう。本当、2時間あったら何が出来ただろう……本も読めたし、小説も書けた……。少なくとも天井の模様を暗記することよりは有意義なことが出来たはずだ。

 いつもなら眠れないことで悩んだりしない。眠れなくても起きてればいいや、になる。しかし、明日は打ち合わせが……しかも早い時間の打ち合わせがあるのだ。社会に生きる人(いきるんちゅ)である自分は、流石に打ち合わせに遅れるわけにはいかない。だからこそ、あんなに万端にベッドに入ったというのに……。

 でも、原因は分かっている。

 不眠の原因は大きく分けて二つ。
 一つ目はいつもの病だ。何を隠そう私は「次の日予定が入っているとワクワクで眠れない」という『永遠の遠足前症候群』を患っているのだ。この間は永遠コンプレックスを患っていたのにこの病名はどうなんだとは思わなくもないが、やむなしである。
 というわけで、私は「明日の打ち合わせはどうかな~」で頭がいっぱいになってしまい、何だか眠れなくなってしまうのである。これ、真面目に聞きたいんですがみんなどうしてるんですか? 実を言うと、これあらゆるイベントの前にこうなんですよね。私は常に限界の眠気に耐えながらディズニーランドやボードゲームを楽しんでいるんですよ。凄いハンデですね。


 そして二つ目。これがかなりキツい。
 今、絶賛〆切前なのである。
 今書いている小説は、かなり自分でも書くのに苦労する題材を取り上げていて、描写も辛いし展開も辛い、何でこの小説を書いているんだ? と思うようなものだ。私は相当な気分屋であり天啓待ち(なんかよくわからないけど書ける波のようなもの)型なので、気を抜くとこの原稿じゃなくて全然関係の無い小説──趣味で書く脱法小説をがりがり書いてしまう。
 それでも〆切を破るわけにはいかないので、一定のペースで原稿は進めているのだが、負荷のかかる作業なので並行して脱法小説を書き、天啓が来そうな時に原稿に戻り、厳しくなってきたらゲラを読んだり(今日はコルミノの最終チェックをしました)ここ半年進めている某作業をやったりして、次の天啓を待つ。
 このやり方、何がいけないって単純に仕事時間が増える。あと、脱法小説も実際天啓待ちのところがあるので、8000字とか15000字とかだけ書いた脱法が増えていく。集中して原稿をした方がいいのに、無駄に脳内麻薬を長く出し続けてしまう。

 こうなるとどうなるかというと、眠れなくなるのだ。

 そろそろ眠くなってきたのでベッドに入ろうと思っても、長く小説を書き続けていると、なかなか戻ってこられず、目が冴えまくってしまうのだ。それだけならまだしも、天井を見つめながらあれこれ考えてしまう。誰しもがやったことがある、あるいは襲われたことのある『眠る前の妄想』! 私はこの脳内劇場が始まる確率が高く、これが始まると数時間くらい眠れない。朝になる。私の妄想はビジュアルではなく活字で浮かぶので無駄に尺を取るのだ。そして、妄想だから大して整合性が無く面白くもない。これで眠る前の妄想劇場が物凄く面白かったら、それを書き起こすだけで済むのに現実は非常だ。
 それでも考えている時はアドレナリンが出るし、面白くもないけど要素は使えそうなのでいくつかはメモして取っておくし、やめようと思っても完全に脳は起きてるしで、結局まともに眠れたのは二時間だけということが頻発する。作業時間が長くなっている時のこの不眠症はかなり常態化している。今回は夏バテも相まって、これが三週間くらい続いてしまった。

 というわけで、今は不眠の原因二大巨頭が立ちはだかっている状態なのだ。

 これで明日は早い打ち合わせだから寝よう! が出来るはずがない!
 いや、ここまで長々と書きましたが本当に困っている。眠れない時って何でこんなに世界に取り残された気がするんでしょうね? 自宅から見えるコンビニの明かりを見て人間生活を感じ入る夜はもう終わりにしたい。
 というか、この記事には叙述トリックが一つあって、明日の打ち合わせは14時からなんですけど、それでも起きられる気がしない。どうせこれ朝までコースなんだろ!
 なら原稿をすればいいんですけど、眠いと尚更天啓が来ない。全然関係ない脱法小説なら書ける気がするけれど、また未完成の小説を増やすつもりか? この夜中に?
 早くこの終わらない遠足の夜を止めたい。まあ、朝日が昇ればどうせこれは遠足の朝になって、遠足になるんですけど。この不眠と地続きな遠足が終わった後ってどうなるんだろう? 後の祭り?

 

永遠という言葉を思いついたやつと仲良くはなれない(ということを言うような十五時間前の自分とは仲良くはなれない)

 

 元サークルメンバーで宅飲みしていた先輩の家を眠いとかいう理由で離脱し、家に帰ってシャワーを浴びて目が冴えたのでこの文章を書いている。
 もし友人達がこれを読んでいるとしたら、こんな後で読み返して後悔するような謎ポエムを書くくらいなら、どう考えても帰らないで餃子でも焼いてたら良かっただろと思うに違いない。いや、本当にそうなのだ。でも信じて欲しい。私は本気で帰って寝るつもりだった。そう出来なかったのは多分先輩が留学に行くからである。

 先輩が一年ほど留学に行くんですよ。

 その先輩は前々から世話になっていた先輩で、当然ながら影響も受けたし、その先輩自体が(本人は絶対否定するだろうけど)かなりの人格者なので、単純な話をすれば大好きな先輩だった。まあそんな先輩と一年も離れるっていうのが本当に寂しい。
 それで、今日は何やかんやあり、都合があったサークルのメンバーと飲み会をして、みんなで餃子を焼いたりした。餃子って包むだけでエンターテインメントになるから素晴らしい。普段は引きこもって小説を書くだけの日々なので、こういう集まりが得難いな、と思いながら執拗にヒダを作って餃子を焼いた。
 で、手作り餃子を食べた後は冷凍の餃子を素朴に食べようということになり、自分達が作ったものより幾分か形のしっかりした餃子をホットプレートに並べて蓋をしたところで、そこからずっと感傷に囚われている。
 いや、本当に訳がわからないんだけど、あの均整の取れた餃子の並び。あれが一番駄目だった。何せ形が綺麗だから。完璧に見えてしまうのがよくなかった。そう、完璧に見えたんですよね。あの瞬間が。

 サークルの友人が好きだ。まあサークルの性質上自然発生的に先輩も後輩も同期も居て、そのどれもが割と大事だ。今回留学に行ってしまう先輩もそうなんだけれど、本当に得難いと思っている。
 私はあまり社交的な人間じゃないので担当編集氏に心配されるくらい友人が少ない。そんな中でまあこれは衒いなく友人……と呼べるのがこのコミュニティーくらいで、井の中しか知らない蛙が往々にしてそうであるように、こんなに奇矯な人間が集まるのはここだけなんじゃないかと自らの庭の芝生を真っ青に染めている次第である。そんなの、まあ大切にしちゃうんですよね。大切にするって言っても私がこの中ですることとか特には無く、ただ大切だな、と思っているだけなんですけど。

 だから、感傷に負けてしまって駄目だった。あの餃子を焼いた瞬間に、これ永遠じゃないのか、と思って悲しかった。よりによって冷凍の餃子でこんな感傷に浸りたくなかったので、もう少し不揃いであってくれればよかった。


 カート・コバーン氏の遺書に「きっと全てを失ったときに初めてそのありがたみが分る世界一のナルシストなんだ。」という一文があり、私は折に触れてそれを思い返している。対する自分は、最高の瞬間を味わう度にそれが失われることを想像してしまい、餃子が焼けるのすら楽しめない。

 要するに私は永遠コンプレックスなのだ。

 いや本当に、今日ここでいいのかよと思ったし、あの場に居た人間には嘘だろと思われるかもしれないけれど、私はあの場が永遠じゃないことに驚いてしまった。

 昔から定期的に開催されるものが恐ろしかった。定期的に行われる演奏会と聞いただけで、それが終わるところを考えてしまう。だってほら、永遠に催され続ける演奏会とか、多分無いじゃないですか。永遠に催され続ける演奏会を観測出来る人間はいないから。毎年決まった季節に行く旅行とかも、いつか行かなくなる日を考えてしまう。

 つまりは何か幸福なことがあると、これ、永遠じゃないのか、って思ってしまうんだよな。永遠という概念があるから、どこかそれを追い求めてしまう節がある。本当に、永遠という言葉を考え出した奴とは仲良くなれない。そんな訳の分からないユートピアを設定してんじゃねえよ。天竺はインドなんだから永遠も何処か目的地を用意しておいてくれよ。

 永遠であって欲しいと思った時から感傷は忍び寄ってくるんですよね。いつか私達は定期的に会うことも無くなり、私は今日の思い出をマイルストーンか何かのように打ち込んで、折に触れて振り返ることになるのかもしれない。そんなの本当に嫌なんですよ。ハンドスピナーで五年は遊びたい。遊びたかった。もう遊んでない。いつかこんな物凄く最高な人間関係ですらハンドスピナーの箱に入れることになるとは思いたくないんだよ。これは未来の私に言っている。絶対入れないでほしい。

 サークルの友人たちが好きだ。永遠に一緒に居て欲しい。ここの一文が多分無理なんだ。条件に存在しないものを代入してしまうから。

 泥酔した私がみんなに「変わらないでくれ」と言ったって多分人間変わるし、いつかこの激情も忘れてしまう日が来るだろうな。私は忘れっぽいし時間は無慈悲だし、死んだ恋人をずっと同じ熱で愛し続けるのは難しいし、手元のスマートフォンは一年前のパワーワードを予測変換から弾き出す。
 なんだかんだ言って先輩は留学に行く(いや、留学には行った方が良い)寂しいとか永遠に傍にいてくれとか喚いてもみんな人生をやっていく。また永遠ってワードが自分達を置き去りにするよ。こういうこと言うと滅茶苦茶良い奴な後輩が「私は永遠に斜線堂さんと遊びますよ」とか言ってくれちゃうんだよな。本当か? 五十年先でもワードウルフで笑ってくれる?

 でもまあ、永遠って言葉を作った奴を赦せないってことだけは一生忘れないと思うんですよ。きっとみんなで集まって餃子を焼くこともなくなって、私がそれを悲しくも思わなくなって、餃子を一人で食べて満足するようになっても、永遠って言葉を開発した奴への愛憎は、多分忘れないものなんだよな。

 そういう話です。

 

*(以下、十五時間後の怪文書)

 

(十数時間後の追記)

 

 完ッ全に酔いが醒めて素面に戻った時にこの文章を読んで、案の定頭を抱えた。友人に言及するより先に、明日の自分自身について言及して欲しい。一番怒るのは十八時間後の自分だぞ。そういう性格だってお前も分かっているだろ。

 

 アルコールが入った状態で書けるタイプの文豪にはなれないのだな、と自覚した。何しろ普通に一行目から文章が下手なのである。私は斜線堂有紀本人なので知っているが、こいつはこれを書く一時間前くらいに酔って人知れず駅の階段から落ちてるんだ。そんな人間が意味の通った文章を書けるはずがない。あと、先輩が留学に行くというだけでそんなテンションになるのはどうかと思う。先輩は普通に帰ってくるぞ。

 

 これを読んで秒で消そうと思ったのだがそうしなかったのは、本気でアルコールの入った自分の文章を見るのが何だか興味深かったのもあるし、あとは、この文章を書いている自分と今の素面状態の自分の思想が完全に矛盾していることに驚いたからでもある。結論から言うと、私は別に永遠という言葉を考えた人間と仲良くなれないとは思わない。

 

 というか、この文章を書いた人間は『ユニコーンが現実に存在しないのが悲しく、その悲しみを創出するきっかけになったからユニコーンって言葉を考え出した人間が憎い』みたいな話をしているようだが、ユニコーンが現実に存在しないとしてもユニコーンって概念があるだけで人生ちょっと楽しくなるだろ。

 

 それに、ユニコーン何処かにいるかもしれないし。私は永遠って言葉が好きだし絶対にあると思いますね。永遠に催される定期演奏会は無いかもしれないけど、楽器を別のものにしてディスコイベントにしながら続けていくことが出来るだろうし。ハンドスピナーは完全にお前の怠慢だよ。でも、ハンドスピナーで遊ばなくなっても今でも部屋にあるし忘れてないんだよな。

 

 そもそも私がよく言う「一生小説書くからね」のスティグマがある以上、そこに永遠があることを期待しているはずなので、この時点で自分への解釈違いが発生している。アルコールで人の本性が出るとはよく言うけれど、本当にそんなことがあるんだろうか? 今理性的な自分の根幹にある「一生小説書くからね」と、酔って出たその本性らしきものが矛盾するということは? まあ、人間ってあんまり恒常性の無いコンテンツなのでそういうことなのかもしれない。

 

 ただ、かなり寄り添って解釈するなら、多分これ書いた人間は自分の記憶力の不確かさを知っていて、それ自体に何の期待もしていないんだろうなと思う。あとは外部のものの恒常性も。だから「その瞬間の輝き」(記憶に類するもの)「大切な友人達」(外部のもの)を永遠と繋げられなくて嫌なんだろう。

 

 でも「一生小説書くからね」は外部というものが全く関係がない。最悪地下室に閉じ込められても自分が存在していれば小説は書けるわけだから、割と永遠に近いものとして認められるのかもしれない。でも、酒に酔うと小説が書けない(実際、不純文学は目が回って書けなかった)ので、アルコールが入った状態だと自分の中に永遠に繋がるものが無くなって、素面の自分と矛盾するわけだ。

 

 と、ここまで纏めて自分なりに解決した。これに気がついた時は割とすっきりしたのだけれど、これを読んでくださった皆さんが読んでも何を言っているんだ? になるかもしれない。でも、酒に酔った文章に向き合った文章なんて意味が通らなくて当たり前なのだ。

 

 もう一度結論を言うと、永遠はあります。私は永遠があると思ってますよ。

 私は一生変わらないでいます。五十年後もワードウルフで笑うかはわからないけど、永遠があると思うし証明はいし続けていこうと思うよ。

  そういう話です。

 

2019年上半期に書いたものについて語る


 修羅場だな、と思っていたら既に2019年が半分終わってしまっていた。衝撃だった。ここ半年はありがたいことに絶え間なく何かしらの依頼があり、忙しくさせて頂いた。本当にありがとうございます。これらの全ては読者の皆さんがこの二年間しっかり推してくださったからであり、何と御礼を申し上げていいか分かりません。これからも精進致しますので、何卒よろしくお願いいたします。
 この感謝の気持ちってどう表現したらいいか分からないな、何しろ人間の感情って証明出来ないのだから、という焦燥から生まれたのが「夏の終わりに君が死んだら完璧だったから」なので、7月25日は何卒よろしくお願いいたします。発売されたらこれもあれこれ言おうと思うのですが、色々な思いを詰めました。それにしても、かつてあんなにお金の話ばかりしている青春小説があっただろうか、みたいな話になりました。お金は人を狂わせるので仕方がない。
 というわけで、忘れない内に手帳に書き留めておいた脱法小説などのあとがきを載せておく。口調やトーンが違うのは、その時々のメモを参照している為です。

■2019年上半期あとがき

「奉神軍紀
 何故か年初めにやったのが集英社ヤングジャンプで漫画原作という色々と跳ねた仕事だった。小説家として仕事をしていたところに漫画原作の依頼を頂き、異例のスピードで読み切り掲載が決まった数奇な作品。これやあれやが重なり、2018年末はスケジュールが死んでいたのだが、無事に出来た。今回の作品はまず忠介というキャラクターが先にあり、このキャラクターを軸に脚本を書くという形だったので、色々と大変だった。あとは時代背景を調べるのに尋常じゃなく手間を掛け、参考文献が20冊を優に超えている。これの台詞を細々と直しながら「夏の終わりに~」の初稿を書いていたので、感情が凄いことになっていた。
 この経験は本当にいい経験になった。というのも漫画の文法というのを初めて知ったのだ。私の小説を読んで「斜線堂有紀に原作をやらせてみたい」と思ってくれた編集者の皆さんには感謝しかないのだが、如何せん漫画には漫画の文法がある……というのを知った仕事だった。私の小説は地の文も台詞もとにかく長いので、ネームでゴリゴリ台詞を直す作業が必要だったのだ。小説ならいくらでも喋れるけれど、漫画はサクッと必要なことを、しかも効果的にかっこよく言わなければいけない。52Pという初めての仕事で取り組むにはあり得ないページ数のボリューム感の把握などにも骨が折れた。作画担当の石黒先生には大変迷惑を掛けたものの、終わってみれば楽しかった。
 何よりヤングジャンプは読者としてずっと読んでいた雑誌なので、それに自分の作品が載るというのはなかなか感慨深かった。「嘘喰い」や「ゴールデンカムイ」で情緒を育んできたので、本当はじんわり泣きそうな気分だった。このような機会が与えられて嬉しい。
 これをきっかけに集英社さんにディープに関わっていくことになったので、色々と楽しみですね。その所為で今なおスケジュールが大変なことになっているのだけど、身体を壊さない程度に頑張りたい。

「僕は本山らのに恋をする」
 本山らのちゃんが好きなので夢小説を書こうと思ったら自分が死刑囚になってしまった。
 テーマはキュレーションだったのですが、少し迂遠な仕上がりになりました。『自分の作ったAIが作ったAIが殺人を犯してしまったことで死刑囚になる』という自分と距離のあるものの責任の話。あるいは『自分が書いたものではない物語にある種の責任を持ち光を当てる』本山らのちゃんの話。実際的な距離があるものに自分の名前を冠してふれあうのは愛だよな、キュレーターであるらのちゃんは愛の使徒なんだよな、という話です。
 人間は物語である、というのもずっと支柱にあるテーマであり、この物語の本山らのはそれを告げる立場ですが、そんな彼女も素敵な物語。だからこそこのアンソロジーが編まれたのだ……。
 こちらのアンソロジーは通販やらのちゃんフェアをしているアニメイトで入手出来るようなので、是非ともお手に取って頂けると幸いです。

「煉獄の変奏、あるいは一切の希望を捨てよ」
 人生は如何様にも転ぶな、というが頭の中にあるので、こういったパラレルワールドを考えるのが本当に好きである。うっかり人生がバッドエンドに転んでしまった瀬越俊月の物語。それでも人生は続く。歴代で一、二を争うほど俊月を書くのが楽しいので、いくらでもその人生について考えてしまうキャラクター。カニバリズム描写を描く為に肉料理のレシピ本を大量に買い込んだ。
 鞠端のような何も大義の無いクズを書くのもあまり例が無かったので、その点でも楽しかった物語。それ以外は結構辛い気持ちで書いた。俊月のことを真面目に考え過ぎた。
 テーマは同一化。追想を重ねていった結果、理解しえなかった彼岸に立つ怖さのようなものを考えていて、好きな人が脳内に居れば侵食が始まるという話。小鳩がそれっぽい理屈で俊月を誑かしていましたが、あれは詭弁ではなく小鳩の信じる真理で、地獄への道は理屈で舗装されている。それでもその手を取らなかったのは、本物の小鳩が地獄から止めたのかもしれない。イマジナリーの自分に取られるのも癪に障るので。
 ちなみに小鳩と決別する為にイマジナリー小鳩にやってもらったとある行動──本物の小鳩が絶対にやらないこと、には最初はちゃんと描写があった。具体的に言うなら、あそこでイマジナリー小鳩が自分の目を抉る描写があった。
小鳩はその目に映るものの殆ど全てを愛しているので、恐らくこれが一番やらないことだ……と思って書いたのだけれど、書き終わって気づいた。これは俊月が見ている幻覚なのだ。俊月は幻覚だろうが何だろうが小鳩が傷つくところを望まないので、イマジナリー小鳩にそんなことをさせるはずがない。小鳩も絶対にしないだろうが、俊月も絶対にさせない。
そういうわけで、この描写も没になった。あの任意の行動の中身は『小鳩は絶対にやらないだろうが、なおかつ俊月が望むもの』という面倒な縛りがつくこととなった。
 これも色々とあてはまるものがあると思うのだが、結局のところその後に言う「死んじゃってごめんね」以上にありえないことも求めることもないのだと思う。
 俊月関連は大体語り終えたのだけど、とにかく彼のキャラクターに入れ込んでしまったので、これからどうなるのかは分からない。

「嗜好審美研究会の頑張り部室争奪録」
 語るのが一番難しい……というより、これはキャラクターを固める為に、とある長編の前日譚を書こうという試みだった。ラストに異常に不穏な文言があるのはその為。テーマはお前の所為で人生滅茶苦茶だよ、のアッパーなパターン。共に栄華を極めたその後、雪を見に行くの文言と共に失踪される。いつか出るかもしれない後日譚での関係性の狂いっぷりを楽しんで頂けると頂けると幸いです。
 ミステリー的なテーマは主人公が詐欺師というか犯人側。これでどんでん返しをやろうという縛りを入れている。


 「狐神計画」

半年前からのろのろと書いていたもので、とあるVtuberにドハマりした結果出来た本格SF。何だか情緒が実った気分。ある意味わたまでと同テーマを扱っている。神性は何処に宿るのか、文化はいつ終わるのかの話。のじゃろりを書くのが好きだなと思ったのですが、ニテ様のようなキャラクターじゃないと書くのが難しい……!


 この半年こつこつと作業をしていたことが下半期で世に出るので、楽しんで頂ければ幸いです。多分どれも作風やジャンルが違うので、どれかを楽しんで頂ければ嬉しい。どれをも楽しんで頂けたら嬉しい。7月も頑張ります。本当に皆さん、半年間お世話になりました。

「特に旅行する気も無いのに空港に行くことで名探偵と対決する」を語る


 最近ミステリー小説を書いている。ミステリーとは謎がある物語である。ミステリーというジャンルは物凄く懐が広いので、謎が無くてもミステリーだったりするのだが、往々にして謎がある。そして、謎がある物語には大抵の場合「推理」がある。


 この推理、問題はこの推理だ。この推理ってやつは、僅かな手がかりから様々な真相を明らかにするのだ。名探偵なんかはこれで相手の心のやわいところをボロボロ突いている。シャーロック・ホームズなんかもこれで論理の地獄車を回している。私はミステリーを書くにあたって、物語に伏線を敷き、手がかりを撒き、登場人物が推理を出来るように構成を行っている。
 しかし、部屋で一人、論理のマニ車を回していると脳がゆっくりと溶けていくのだ。

 

 このままではいけない。人間の行動を推理してはならない。論理を組み立てて人を分析してはならない。思い出を考古学の領域に明け渡してはいけない。人間の精神を貝塚のように掘ってはいけない。

 なので私は、空港に来た。

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 空港に来た。

 

f:id:syasendou:20190417171713j:image  このガチャガチャ有名だよね。


 別に旅行の予定があるわけじゃない。崖際に建っている家で日がな小説を書いている人間が思い立ってトリップするはずがない。でも来てやった。誰もが何かしらの目的を持っていそうな、この目的の海に。だが、私は完全にノープランだ。

 

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 搭乗便をチェックする。私の乗るべき飛行機は無い。何故なら搭乗券を買っていないからだ。

 

 限界まで荷物を少なくして来たので、私は身軽だった。空港に居る人間の中で受付の人の次くらいに軽やかだった。道行く人が大きなキャリーケースを引いていても、私には関係が無い。機動力が違う。こうして隣を歩いていると、同じ空港に来ている人間とは思えないな、と思う。彼らと私の大きな違いは、旅行に行くか行かないか、その一点だけなのに。

 

 空港に来てみて分かったのだが、空港は意外と暇を潰せる。まあみんな飛行機を待たなくちゃいけないので、当然だ。カフェも大きくて空いているし快適である。初めて知ったのだが、空港のカプセルホテルでは仮眠プランもあるのだ。空港に来て本気でやることが無いときは仮眠をしてしまうのもいいかもしれない。もうお気づきかもしれないが、飛行機を予約しなければ飛行機の時間も気にしなくていい。

 

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 ご飯処できつねうどんを食べてから搭乗便を確認する。
 私の乗る飛行機が無い。いつか出現するんじゃないかというワクワク感がある。

 

 さて、私は一体今何をしているのか?

 

 当然ながらミステリーの文脈を破壊しているのである。

 名探偵は多分、私が空港にいる理由を推理出来ない。極限まで情報は削った。だが、意味ありげに時計はちらちら見ている。空港の書店にて、いかにも飛行機で読みそうな分厚い本まで買った。
 名探偵は多分、私を物凄く身軽な旅行者か、さもなくば誰かを見送ったり迎えに来たりした人間だろうと思う。馬鹿だな、そこには誰も居ないよ。

 私は旅行にも行かない。誰かと待ち合わせもしない。宇宙から戻った人間が重力に身体を慣らしていくように、ミステリーを書いた分だけ不合理に身体を慣らしているのだ。……と、ここまで書いて、これだとこれはこれで狂人の論理によるミステリーだ!! になってしまったので、一旦それも否定する。私は無目的で空港に存在しなくてはいけないのであり、いやでもこれも無目的で空港に存在する目的になっていないだろうか? もう駄目だ、この世界は意味と理由に囲まれている。

 

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  この世界には意味があるので、突然私の乗るべき飛行機が出現することはない。

 

 とにかく、私は架空の名探偵に戦いを挑んでいる。もしかするとこの空港に居る数千人の中に一人くらいが「あの人旅行行くのにやたら軽装だな」と思ってくれたかもしれない。だとすれば私はほんの一瞬、ほんの一瞬だけ意味に勝ったのだ。この結論自体が「意味」に敗北した結末だったとしても。

 ところで、今執筆しているミステリー小説、〆切は九日後である。いや、貴重な一日を空港で過ごしたので実質八日後である。そこで薄々私はこれに現実逃避の意味を与えてしまうわけで、誰かここから出して欲しい。

 このブログ書いてたら〆切が七日後になった。嘘だろ。